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まだ見ぬ景色 その先の

ビョルン・アンドレセン 2020年ラジオインタビュー 日本語訳

*** スウェーデン制作のビョルン・アンドレセンドキュメンタリー映画「The Most Beautiful Boy In The World」(2021年1月29日Sundance Film Festival で上映)に関連して収録された、ビョルンのストックホルムでのスウェーデン語のインタビューを昨年秋に2つほど目にし、ごく近しい人に英語に訳してもらいました。

一つはYouTube にあるテレビのトークショー番組、もう一つはポッドキャストにアップされたラジオ番組です。

その英語の資料を私が整理してまとめたものを少し前の2つの記事で上げていますが、更に日本語に訳したものがこちらです。作業には細心の注意を払いましたが、スウェーデン語→英語→日本語と段階を踏んでいるためニュアンスの違いは出るかもしれません。私自身の感じたことも絡めながらまとめています。***

 

 

 
2番目の記事はラジオ番組「Katarina Hahr möter」の Katarina Hahrさんのインタビューに基づいています。下線部はKatarinaさんが発言した部分です。


 📍こちらのインタビューでビョルンは家族を失った時の状況を含め、辛い過去の記憶を率直に明かしています。従って、内容はたいへん胸の痛むものが多いです。

 

Katarina Hahr meets /Sveriges Radio(Podcast 2020年10月2日)

 

10才で母親を失い、15才で「世界一の美少年」と世に表明され、世界的に有名になったビョルン・アンドレセンと「情熱」について語り合う会話の中でお会いします。

 

 

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Photo: Alexander Donka/Sveriges Radio

 

カタリーナ・ハールです

ちょっとこれを(🖋何かをしまうか置くかしている様子)

サングラスはかけたままにしますか?

(収録の)音響に違いは生じないと思うので。

(笑って)… 今のあなたの外見はどんな感じですか?

あぁ… (笑い)。だいたい同じですよ、少し髪が長くなって髭も伸びてますけれど。

今もカールした髪なんですか?

ええ、いくらかは。

でも時々「輪っか」が現れるんです(笑い)。ちょっとメドゥーサの頭みたいに。

 

🖋カタリーナ・ハールさんは後天性視覚障害者です。

🖋メドゥーサ/Medusa  ギリシャ神話の女の怪物

      

            ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 


「情熱」と聞いて思い浮かぶのは何でしょう?

あぁ…「愛」。それがまず最初に浮かびました。

 

初めてのガールフレンドは覚えてますか?

ええ、17才くらいの時でした、凄く若かった。(女の子との交際は)初めてで、その頃は情熱が何かもわかっていませんでした。

 

子供の頃のことで記憶にあるのは?

自分用の子供椅子に座っていて、窓が見えたのを覚えています。あれは冬だったんでしょう、葉を落とした木の枝が灰色の空に向かって伸びていましたから。

もしかしたらそれは、その当時の私自身の心象風景で… もしかしたら、と言うのは確信はないからです。

… でも、両親の離婚などで起こりうることの予言のようなものだったかもしれません。


お父さんについて何か覚えていますか?

義父のことなら、ええ。と言うのも、私が13才の時までは父親は義父でしたから。

それから、実の父ではないと知りました。

でも、あの頃は義父にあまり会わなかったので私にとってはとても貴重で大切な存在だったんです。


その頃、どういう気持ちでいたか覚えてますか?

ナーバスになっていました… (両親の)離婚で何が起こるのかと。

 

では、家ではあまり楽しくはなかった…

なかったです。頻繁にお酒を飲んで大声が飛び交って…

時々私が(両親の争いの)仲裁に入ろうとしました。

 

お母さんについては何を覚えています?

鬱。

でもそれだけじゃなく、母は私達がまだ就学前にヨーロッパの半分、旅行に連れて行ってくれたんですよ。

(🖋ここでビョルンは「私達」と言っています。私の解釈ですが、彼には母親が同じで父親の違う兄弟姉妹がいる可能性があるかなと思います。)


母は旅行好き、写真撮影が好き、それから詩を書いていました。そしてジャーナリストでもあったんです。

たくさんの才能を持っていました。
 

そのお母さんに、それから何が起きたんですか?

まぁ、母は精一杯やったのではないかと思います。

ある日、私達が学校に行く途中、一緒に路面電車に乗っていた母はストゥーレプラン(ストックホルム中心部の広場)で降りたんです。

それで私達が母に手を振ると、母も私達に手を振って、手を振って、手を振って、手を振って…

そして私には、これが母を見る最後になることがわかっていました。


わかったのはどうして?

母が虚ろな表情で窓の外を見ていたのを見ましたし、絶え間なく喫煙していて私達の言葉掛けにも応えることはありませんでしたから。

 

じゃあ、お母さんは悲しそうな様子で?

ええ。私は絶望的な気持ちになって、大きくなったら母を助けるんだと思っていたのを覚えています。

 

あなた達が手を振ってそこでお母さんと別れた後、何が起こったんですか

母はいなくなりました。どこに行ったのか誰も知りませんでした。

祖母はどこか旅行にでも行ったのだろうと言っていました。

 

その時(母親の失踪後)住んでいた所は?

(母方の)祖父母の所です。

 

オスタマルム(ストックホルム中心部)?

そうです。

 

じゃあ、お祖母様達はお母さんがどこか旅行しているかも知れないと言ったんですか?

まぁ、そうです。でもそれについて誰もあまり話しませんでした。

 

そして、その当時あなたはたったの10才…もの凄く悲しかったことでしょうね…

(息を吐く音)うーん… カタリーナ、それが問題というか…

つまり、私は長い間どういうことが起こりそうか感づいていたので、母親の失踪はショックではなかったんですよ。男性が二人、家に来て母のことを話し始めた時でさえも。

 

二人は警察官?

そうです。警察はその後、母を発見しました。林の中の… 松の木の下で。

何だか恥ずかしいように感じるのは… 私は泣きたかったのに泣けなかった… どうしてかわかりません。まるで麻痺してしまったような感じで…

人が悲しみについて話す時、それを理解しているわけではないんです。本当の悲しみを感じたことが、私には一度もないから…

(ため息の音)だから、何かそういうハンディキャップのようなものが私にはあるような気がするんです…

どういうふうに説明したらいいかわかりませんけれど。

 

この事があってお祖父様お祖母様はどんな様子でした?家の中の雰囲気は?

とても静かでした、それに触れることもなく。

お葬式の日が来てそして終わっても… 何も言いませんでした。

祖父母家族は… 深刻な問題をオープンに話したりする人達ではなかったです。

 

どんな家族でした? 

そうですね… 母がいなくなった後、祖父母が私達の面倒を見なければならなくなって… 祖父はそれをあまり良く思っていなかったと思います。

 

お祖父様お祖母様に愛情を感じていました?

… いいえ… 感じていなかったです。

 

お母さんに愛されていたと感じてました?

(大きく息を吐く音)それは本当にわかりません。その(愛されたと感じた)記憶がないのです。

まず初めに思い浮かぶのはぬくもりとか誠意ではありません。

母は私をある種の貴族というか、そんなような感じに育てたかったと思います。

ある人達は、母は私を深く愛していたと言うのです。

でも私の、母への情熱に対して、応えてもらったことは一度もありませんでした… 少なくとも、私が願っていたであろうやり方では。

人はその情熱の対象になるものを追い求めます。そしてそれが消えて無くなった時、何か代わりとなるものに移って情熱を傾け続けます。その犠牲となる人達にとっては難しい場合もありますけれど…

 

そしてあなたはまだ子供でした…

そうです。

 

お母さんは自殺したのですか?

そうです。

 

… そしてそれ以来、あなたが探し続けていておそらく見つけていないものは…

救うための誰かを探し求めています… 苦難の中にいるかもしれない女性。

そして、自分がどう振る舞うべきとか、どうやったら助けになるのかわからないまま、(そういう相手に)引きつけられるようになってしまう。

ただ、お互い苦しみを抱えていることが共通点です。常に何かを抱えています。

 

「情熱」の意味は「苦しみ」って知ってますよね?

ええ、「キリストの受難」。

 

あなたが10才の時にお母さんが亡くなって、それで義理の父親をお父さんと思っていて… そして13才の時、そうではないと知ることになって… その時何があったんですか?

私の内面でという意味で?


どういうふうに義理のお父さんが本当のお父さんではないと知ったのかと?

あぁ、実はそれは祖父なんですが、少し離れた角部屋に私を連れて行って、大きな家でしたから… そして、「もう知っておいて良いと思うがパール・アンドレセンはお前の本当の父親じゃないよ。彼はお前を養子にしたんだ。」というようなことを言ったんです。

私は「そうなの。」と言って…

祖父はまるで、明日雨になるよ、とでもいうような調子でその話をしました。

 

では、本当のお父さんは誰なんですか?

それが少し前に判明したんです。

 

本当に!?

ええ、DNA鑑定で。何でも98%以上の確実性だということで、画家でありイラストレーターでありアーティストのラッセ・ハルベリと。

彼の線描画が幾つかと絵画が一つ、「レストラン プリンセン」の壁に飾られていますよ。

 

ラッセ・ハルベリが亡くなったのはいつですか?

私が生まれる3、4ヶ月前。1956年です。車を運転中の事故で亡くなりました。


🖋ラッセ・ハルベリ /Lasse Hallberg /Lars Hallberg (1933-1956) 

🖋プリンセン/1897年創業 ストックホルムのレストラン。小説家、詩人、芸術家が集うことで有名。

(🖋ビョルンはここで「私が生まれる3、4ヶ月前に亡くなった」と言っていますが不思議です。それは公表されている彼の生年月日は1955年1月26日で、その時点で Lasse Hallberg は存命だからです。ドキュメンタリー映画の中でもこの事は扱われていると思うのでいずれわかるでしょう。)

 

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Photo: Alexander Donka/Sveriges Radio

 

映画に出ることを望んだのはあなたご自身?それともお祖母様でした?

祖母です。ありとあらゆる種類のオーディションに応募してましたから。

私のデビューはテレビでピアノを弾いた時で、7才か8才でした。

 

それから、ロイ・アンダーソン監督の「スウィデッシュ・ラブ・ストーリー(純愛日記)」 に配役されて… 楽しかったですか?

ええ、撮影は楽しかったですよ。

 

そしてその後、次の役が決まりましたね

ええ、ルキーノ・ビスコンティ監督からストックホルムでのオーディションに来てほしいと電話がありました。

 

それが誰なのか、わかってました?

全然、知りませんでした。最初に思ったのは、もしかしたらポルノ映画のようなものかもしれないと。

 

オーディションはどんな感じでした?

グランドホテル裏のK.K.ハウスに来てくれと言われました。

そこでは私を含め40人ほどの男の子達が動き回っていました。

 

その時、16才?

いいえ、15才になったばかりで。2月だったと思います。

そして、セーターを脱いで下さいと言われて。

 

誰にセーターを脱いで下さいと?

ビスコンティ監督に。脱ぐのはちょっと嫌に思いましたけれど。

 

でも、嫌ですとは言わなかった?

ええ、「嫌です」とはなかなか言えないです、それは今も(笑って)。

 

それはもしかすると、庇護してくれる人があなたには誰もいなかったから?

そうです、誰もいなかったです。でも誰も責めるつもりはありません。

映画業界の人達がするかもしれない事を、祖父母がわかるわけではないですから。


それから「ベニスに死す」のプレミア上映がありました

ええ。イギリスのエリザベス女王に拝謁して。それからアン王女も出席されていました。

 

ロンドンでしたね?

ええ。ダーク・ボガードが物語の主人公のアッシェンバッハ教授でした。私はタジオという、その肉体的な美しさゆえに教授の熱愛の的になる若い男を演じました。

それが印として刻まれて永久に拭い去れないんです。

 

どういうことですか?

人はいつも「ベニスに死す」に戻って… 他の事は重要ではないんですよ。

 

それはあなたに関することで?

そうです。どこにいても関係なく… ロンドン、ローマ、パリ… (仏語で何か話し、くすくすと笑う)。ずっとそうです(くすっと笑う)。

 

利用されたのではなかったかと思いますか?

(息を吐く音)… ええ、そうじゃないかと思います… 当時私に支払われた4,000ドル(米国ドル)より、もう少し高い額を支払われるだけのことはあったと思います。

 

物として扱われたように思いました?

思いました。物として見なされるのがどんなものか私にはわかっています。

それを他の人には味わってほしくないのです。

 

 

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Photo: Katarina Hahr möter / Sveriges Radio Facebook


さて、私達、行ったり来たりしてこの事を話していますけれど、あなたやあなたの人生にそのことが強い影響を与えたのは間違いないでしょう

ええ、そうですね…

 

どういうふうに?

喫煙と飲酒という形で現れました。しかも、そういうものは気持ちをなだめるものでしかないのはわかっています。

正気を保つために飲んでいるんです。

フロイトに関しては何でも好きなように言っていいでしょう、フロイトの概念「Ersatz (代替)」は(私に)関係があるんです。

 

自分を慰めているんですか?

そうです。

 

でも、子供達がいた時はもっと難しかったでしょう?

ええ。「これは新しい人生だ」と思いました。あの時は心境の変化がありました。

新しい命が生まれると自分のことは二の次になります。

だから、私が適切な教育を受けられ家族を扶養できるようにと、たくさんの学校に申し込みました。

それはしばらくの間、まあまあうまくいっていたんです、私と子供達の母親との関係が悪くなり始めるまでは。

家にいるのが耐えられずパブに行くようになりました。凄く未熟で自分勝手でした。

でも、私達の関係が険悪になればなるほど避けるようになりました。

そして、明らかに事態が変わったのはあの子が亡くなった時です。

 

息子さん?

ええ、エルヴィンです。

 

エルヴィンが生まれたのはいつですか?

… 1986年の9月12日。その時、ロビンは2才2ヶ月くらいでした。

あの頃は全てがうまくいっているようでした。子供を二人持つことは素晴らしかった… それぞれ(女の子男の子)一人ずつ。

でも、恥だと思いました…

 

何があったんですか?

(ため息の音)眠ってしまったんです、たぶん2時間半か3時間くらい。そして、次にスザンナの叫び声を聞いて。

あの子がいないんです…… あの子は毛布の下に…  私の横で…

(大きく息を吸う音)私は毛布をはぎ取って、そしてあの子の唇が青くなっているのを見て… 救命処置を行いました。でも無駄でした……

それから救急車が…… 病院はできる限りのことをやってくれたと思います…

(ため息の音)でも医師が出てきた時、その表情からもう手遅れだったんだとわかりました……

 ( 🖋この状況説明の所からビョルンの息遣いが変わり、自身を責める言葉を繰り返す所まで苦しそうに話しています。)


そのあとのことは覚えてますか?

(間があって) わからないです、何か麻痺したようになって… 生ける屍のように。

何と言っていいかわかりませんでした…

あれは明るい日差しの、よく晴れた日でした。

 

その後、(医学的)調査は行われたんですか?

病院は乳幼児突然死症候群(SIDS)と診断しました… それは全く受け入れられませんけれど。

 

どういうことですか?SIDSじゃないと思っているということ?

わかりません… まあ、直感です。

 

あなたの責任だと思っているんですか?

あれは明らかに私の責任です。

ともかくも、私が大人であったなら…… なんてこった、若造のように振る舞ったんです、私は。そうしていたらこんな事は起こらなかった。

 

でもビョルン、お医者さん達がSIDSと診断したんですよ、だからお医者さん達はあなたのせいだなんて考えもしなかった

 … 私がもっと分別を持って行動していたら、こんな事は起こらなかったとしか言えないです。

 

どうやったらこれに何とか対処できるんでしょう?お酒ですか?

… お酒は対処し易くしてくれると思います… たぶん、考えないで済むようになるかもしれません。でも、わかりません。

もしかすると、何も感じられなくなるように飲んでいるのかもしれません。

 

私が今、何に困惑しているかわかります?あのね、あなたのお母さんが椅子に座って、ワインを飲み煙草を吸いながら窓の外を眺めています。お母さんはとても寂しくて悲しい。お母さんは自ら命を絶ち… それから…

私自身もそれに近い状況でした。人間はある一定の事は共鳴から行動しますから。

中断させてすみません。 

 

ええ… で、それから、あなたは息子さんが亡くなったのは自分のせいだと言います。そして、それはお酒を飲んでいたせいと?

そうです。それと子供っぽい自己中心主義と責任感の無さと。

 

それでも、まだ飲んでいますよね?

ええ、でも少なくとも、他の人の前で飲んだり(迷惑をかけたり)はしていないので。

 

でも、自分自身を痛めつけている?

それは別の問題です。

 

つまりそれは、自分にはそれほど価値がないと思っているということですか?

ええ、自分のことをそんなに尊重したことはないです(笑い)。

 

だから、自分を大切にしないんですね?

ええ… まぁ(息を吐いて)、わかりませんけれど、もし外に出て奇跡が起こるのを待っていたら、たぶん。

わかりません。

 

息子さんのこと、どれくらいの頻度で考えますか?

最近、死後の世界のことについて考え始めたんです。

だから、また息子に会うことを確信しています。

 

 

            ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

ドキュメンタリー映画で描かれているようですが、当時16才の彼がビスコンティ監督等にゲイのナイトクラブに連れて行かれ、そこで欲望の対象として見られた経験はビョルンも過去に語っていますが、そのことで自身に嫌悪感を抱くようになり、それが人生に多大なる影を落としたということのようです。

 

少し前に投稿したScreendailyの記事(ドキュメンタリー映画の二人の監督のインタビュー)では、ビスコンティ監督がビョルンを全く尊重していなかったことがわかるある出来事も映画で明かされます。ビョルンはこれを知った時、どんな気持ちになったのでしょう…

 

その二人の監督のインタビューで、ビョルンが(若かったので迷惑をかけたかもしれないと気にしていて、自ら日本行きを望んだという)日本に40数年ぶりに訪れて日本を心底楽しんだこと、5年に及ぶ撮影期間を費やしたこの映画が彼にとってカタルシスになったかもしれないことなど、明るい話題もあったのが救いでした。

 

そして旧知の仲のクリスティアン・ペトリ監督によると、ビョルンは現在音楽関係のプロジェクトが進行中で、この春あたりに2曲ほどリリースし、新しいバンドを始める予定だということです(^_^)

 

彼には音楽があって本当によかったなぁと思います。